2011年6月アーカイブ

主人は、3月31日から4月6日まで、私よりも2週間早く、女川町へ医療支援に行きました。

今回、その経験を、天草郡市医師会の会報に寄稿しました。

以下、その全文です。

******************************

3.11 東北大震災の医療支援活動に参加して

熊本県天草市五和町二江1477-57

医療法人扶桑会

中村こども・内科クリニック

院長 中村 英一

 

【天草の患者イコール日本の患者だ】

 元来,医学講演会などに出席して真面目に勉強するのは,大の苦手でした。しかし,何のきっかけか,12年前からたびたび出席させていただくようになりました。さまざまな分野の講演を聞いているうちに,普段の診療でどうすれば良いのかよく判らなかったことや,患者さんの訴えにちゃんと答えることができなかったところは,講演のポイントが,そのまま答えになっていることに気がつきました。

 私の診療の場は,日本の片隅の熊本県のまた端にある天草の,そのまた端っこです。しかし,講演会に参加すると,「自分が診ている患者さんたちの訴え」はまさしく「全国の患者さんの訴え」でもあり,自分の患者への答えは現在の日本の標準的医療が提供している臨床のポイントに他ならないと認識させられます。「私の住む天草二江地区の方々は,"天草の代表"であり,"熊本の代表"であり,"日本の代表"である。自分は,そんな"日本の代表的な集団"を対象に医療を行っているのだ」と思えるようになりました。

 

【震災に際しての焦燥】

 そんな中,今年311日,あの東北大震災が発生しました。震災の被害にあった地域は,リアス式海岸である三陸海岸が中心であり,その沖は,古来世界有数の漁場と言われています。一方,わが天草二江地区も,天草灘に面し,漁業・水産業を中心に生きてきた町です。震災翌日の診療から,だんだん東北被災者の方々と二江地区の住民の方々との区別が付かなくなってくる気がしました。

 代わり映えのしない日々の診療をしていることに焦りが生じ,じっとしていられなくなり,毎晩のように夫婦で,「もう東北に行く!」「今行っても何もできんし~,ちゃんとルートを確保してから行って!」というような言い争いをしておりました。二江の患者さんからも「先生!早く行ってあげて!」と言われることもあり,「東北に応援に行ったことにして,どこか1週間ほど身を隠そうか...」と思ったこともありました。             

 そうこうしているうちに,熊本県医師会からJMATを通じて東北被災地の医療支援の希望者招へいの連絡があり,すぐに夫婦で参加の意向を伝えました。九州地区のJMATは,茨城県の北茨城市立総合病院の医療支援を担当することとされ,私は331日から4日間,妻が46日から4日間の支援に参加する予定でした。ところが直前になり,この医療支援計画はなぜか頓挫してしまい,私たちの医療支援も出鼻を挫かれた格好になりました。しかし,すでに私は,公的手段には頼らずとも,"よろず健康相談所"と大きく書いた看板を持参して,自力で東北の避難所へ行こうと決意していました(この時には,妻も行ってよいと言ってくれました)。

 そんな時,自治医大卒業生を中心に作られた地域医療振興協会が被災地の病院の医療支援活動を行っていることを知り,同協会に所属している同級生を通じ,夫婦ともに参加したい旨を伝えると,すぐに参加OKの返事を頂きました(ただし,「相当にキツイぞ!」と脅されました)。

 熊本県医師会へその旨を連絡したところ,その医療支援をJMATの活動として許可するという返事を頂き,晴れて日本医師会会員によるJMATの一員として宮城県の女川町立病院の医療支援に参加することになりました。330日から47日までの89日の予定でした。

 医療支援活動から帰るまではおそらく入浴できないだろうと思い,330日午前の診療を終えてから,地元天草の温泉施設"ペルラの湯舟"へ出かけました。早春の暖かく,のどかな光の中,温泉に浸かりながらこれからの1週間のことを思いやりました。そして,「海はあんな凶暴な姿にも変わってしまうこともある」のだと,眼前に広がる穏やかな光景を見ながら感慨深く思いました。"最期の入浴"を終え,最終便で熊本空港より東京へ向かいました。被災地で一週間生活するための自分の食糧,衣類,医療用品(聴診器,薬,小児用点滴留置針などなど)を大量にパッキングしていたため,空港ではプラス40㎏の追加運賃を支払いました(初めての経験でした)。荷物が"腰部脊柱管狭窄症"と診断されていた腰にこたえました。

 

【いざ女川へ】

 羽田から,そのまま地域医療振興協会本部事務所のある平河町へ到着。医療支援に関するブリーフィングを受け,ホテルで一泊しました。医療チームは,私を含め医師が5名,看護師が十数名と事務職,総勢25名程で構成されていました。翌日は新木場からヘリで女川入りするはずでしたが,天候不良のためヘリは飛ばず,朝545分にホテルロビーに集合し6時にバスで東北へ向け出発することになりました。長時間の行程となることが予想され,トイレと腰痛が心配でした。

 東北方面へ向かう車は少なく,そのほとんどは支援物資の輸送と思われるトラックや自衛隊の車輌でした。福島県へ入った頃から,高速道路に段差や亀裂が生じている箇所が多くなり,敷いてある鉄板を乗り越える度にバスに衝撃を感じるようになりました。

 東北自動車道から別れ,仙台南部道路,多賀城市を経て,前日再開通したという三陸自動車道を通る頃から進行方向,向かって右は津波で流されたのか,一面瓦礫に覆われた平原となっており,海岸までの間には何も建物が存在していませんでした。次第に空模様は薄曇りの雪へと変わっていきました。

 午後1時すぎに女川町立病院へ到着。乗ってきたバスは,直ちに交代で帰るチームを乗せ,東京へ向け出発しました。帰るチームと女川町立病院の職員の互いに別れを惜しむ様子を見て,自分がこれから経験する1週間の責任の重さを痛感し,少々荷が重くなるのを感じました。その日の午後からすぐに外来診療に従事しました。23時間に1回,強い揺れを含む余震がありました。

 ここで,私たち応援医師の生活環境について触れておきます。寝る場所は医局です。机の下の床に直接ダンボールを敷いて,その上に寝袋を置いて休んでいました(頭を踏まれないようにするためです)。なお,震災後から2週間は病院屋上に設置された貯水タンクの水が枯渇していたため,オムツを持ってトイレに入り,オムツの上に用足しをして,その使用したオムツを持って出てきたあと,ゴミ袋へ捨てるという状態だったそうです。私が行った時は,毎日,自衛隊が12トンの水を給水車で運び,それを病院屋上のタンクへ給水してくれていましたので,無事に水洗が復活していました(大変にありがたいことです)。しかし,それでも水が足らないため,節水が呼びかけられていました。食事は,おにぎりと菓子パンの配給があり,カップ麺類はふんだんにありました。レトルトカレーもあり,お湯を入れて食べるアルファー米もありました。夜は,医局でアルコールをたしなみながらの食事ができました(この時間が,唯一のオアシスのようでした)。 

 

【ある日の当直日誌】

 交代で準夜勤,深夜当直,待機体制があり,私も1週間で2回の準夜勤(午後5時から午前0時まで)と1回の深夜当直にあたりました。

 45日(火)の深夜当直の日のことです。

*******************************************************************************               

 医師の当直者が待機する場となっていた医局ソファーで,朝5時半に目覚めた。その間,1回も起こされることは無かったため,起こされたのに自分が起きれなかったのでは?と不安になった。

 流行していた感染性胃腸炎をもらったのか,数日来,激しい下痢に見舞われており,すぐにトイレへ。和式便器を汚してしまい,自分なりに掃除をした。

 洗面後,外来へ行ったところ,あまりにもタイミングよく私が現れたので,外来ナースにとてもびっくりされた。特養ホーム入所中の認知症の方が朝立っていたかと思うと,すぐに倒れ意識が無くなったので,病院へ搬送してきたとのこと。玄関口へ出るとホームの車が止まっていた。車内のストレッチャーの老女は意識もあり,応答も見られた。"起立性調節障害"による症状だったのかと思い,ストレッチャーごと院内処置室へ。バイタルも良好であったが,四肢冷感があり,補液開始し,様子観察することにした。

 そこへ病棟ナースがあわただしく処置室奥の事務室へ走り込んで来た(そこには,院内で唯一の衛星電話が置いてあった。地域医療振興協会が持ち込んだものとのことだった)。病棟入院中の96歳になる女性の患者の意識レベルが下がり,家族を呼ぶために電話しに来たのだった。すぐに4階病棟へ駆け登り(エレベーターは使用不能),病状把握。血圧が低下していたため,酸素投与を指示(酸素も残り少ないとのことで,控えめに使用)。

 医局へ戻ろうとすると,吹き抜けのホールを囲む廊下の反対側の給湯室で,洗面が終わったのか,一人の女性が真っ白いタオルを顔に優しく押し当てながら拭いている後姿が見えた。お湯は出ないので,水は手を切るような冷たさのはずなのだが,その場所は,そこだけがまるで全ての生活環境が完璧に整っているかのように見えた。その気高く清らかなたたずまいは,今ここが置かれている恐ろしく悲惨な状況を見事に圧倒していて,まだ暗い中で,そこだけが神々しく輝いて見えた。何か言いようの無い深い感動におそわれ,しばし涙があふれて止まらなかった。

 約30分後,ホールでの朝礼(毎朝7時から打ち合わせが行われていた)の最中,慌ただしく入ってきた男性を見て,先程の病棟患者の息子だと直感した。朝礼の列を離れ一緒に階段を登りながら,病状説明をした。

 病室に入り,私が患者の名前を呼ぶと,ゆっくり開眼した。息子は,「おがさん!」と東北弁で呼びかけた。すると,患者は息子だと判ったのか,顔全体をしかめながら,うなずいた。その直後から呼吸は微弱となり,血圧も測定不能となった。

「あまり長くはかからないと思うので,ここに居てあげて下さい」と息子に告げ,病室を離れた。

******************************************************************************* 

 

【帰還】

 47日,ついに帰還の日です。

 伸び放題になっていたヒゲをコーヒーカップに入れたお湯で,石けんを泡立てて何とか剃りました(皆からきれいになったとほめられました)。

 午前中はいつものように外来患者の診察を行いました。昼前に,次のチームの医師4名を乗せたヘリが,ヘリポートとして使用していた病院前駐車場へ到着。交代でヘリに乗り込みました。上空から西の彼方を見れば,まだ白く雪を被った東北の山々が美しく輝いていました。                 

 約2時間後,無事,新木場のヘリポートへ到着しました。往路はバスでゆっくり入ったのに,あっという間にこの世に戻ってきた感じでした。見慣れた羽田空港に着いた時には,まるで浦島太郎みたいになった心持ちでした。

 

【思うこと】

 今回帰ったあと,しばしば「どうだったですか?」「大変だったでしょう?」と聞かれます。しかし,私はすでに作り上げられたコースに乗っかって女川へ行き,安全な町立病院の中でそのほとんどの時間をすごし,外来診療にあけくれ,また,決められたコースで帰ってきただけです。特別に新たな体制を立ち上げた訳でもなく,被災地の方々に希望の灯を与えた訳でもありません。

 私の住む天草,二江地区からは遠く西の東シナ海に日が沈んでいきますが,女川では東の太平洋から日が昇ってきます。「遠いところへ来たなぁー」との思いがありました。ある女川の年寄りの患者さんが,熊本・天草弁丸出しの私の問診に,九州から来たと判ったのか,「遠い所から支援に駆けつけてもらい,有難いなぁー」との意味の言葉を,返してくれました(東北弁でわからなかったため,介助のナースに通訳してもらいました)。その時,とにかく"がむしゃらな思い"で医療支援活動に来てみて良かったと,初めて感じました。

 今回の地震で,東北,三陸海岸一帯は,地盤が1メートル強ほど沈下したといいます。同規模の地震は千年に一度起こるといわれており,100万年では1,000メートル程,現在の地面が地下に"潜り込む"ことになります(天草であれば,すべて海の底に消えます)。地球の時間軸からすると,たったの100万年です。そうした悠久の時間の中で三陸海岸は,リアス式海岸としてその複雑な地形を保ち続けており,そのことが豊かな海の恵みをもたらしているのだと思います。そうであればこそ,一瞬を生きる我々人間は再びそこにへばりつくようにして生きていかねばならないのだと思います。今回の地震・津波・原発事故で被害を受けた方たちが,再び安心して暮らせるようになるまでは,まだまだ長く,遠い道のりであると思われます。

 人々が生活をしていく上で最も必要なものは,「衣・食・住」ではなく,「医・食・住」であると言われるように,医療は最も重要で,私たちの生活に無くてはならないものだと言えます。医療の存在無しには東北の復興はあり得ません。今後も,惜しみない継続的な援助が,私たち医療界から必要と思われました。

 最後に,私のわがままな行動を温かく見守ってくださった二江の患者さん達,私たち夫婦のクリニックに勤務していただいている職員の方々,天草および熊本県医師会会員および事務局の皆様と,地域医療振興協会本部の皆様に感謝いたします。

4月14日から21日まで、宮城県牡鹿郡女川町立病院へ、医療支援に行ってきました。

5月に、JMAT派遣報告を書きましたが、今回、医療支援に参加した経験を、天草郡市医師会の会報に、寄稿しました。

以下、その全文です。

******************************

東北大震災医療支援活動に参加して

医療法人 扶桑会

十万山クリニック

院長 中村弓美

JMAT派遣決定まで】

 仙台平野をなめるように覆いつくしていく黒い波。診療後の待合室のテレビは,地震と津波のニュースを報じていました。帰宅すると,リアルタイムでテレビを見ていた主人が「これは阪神淡路大震災を超える大惨事になるよ」と言いました。最初は,まさかそんな?と感じていた私。でも,ニュース映像を見たり,Twitter上に無数に飛び交う安否確認を求める叫びを読んだりしているうちに,主人の言うとおりだと確信しました。

 主人は,すぐに現地に行くと言い出しました。しかし,今主人が現地に入ったとしても被災地に逆に迷惑をかけると考え,どうにか思いとどまらせました。阪神淡路大震災の経験者が「十分に用意をしていないボランティアが現地に行くと迷惑になるだけだ」とネット上で発信していたからです。とは言うものの,私も心がざわざわして仕事が手につかない気持ちになりました。早く対処すれば助かる命もあるのでは,と思ったからです。そのとき,私は「阪神淡路大震災で家の下敷きになった娘の"おとうさん助けて"という声を聞いても,迫りくる大火のために娘を助けられなかった」という父親の談話を思い出していました。

 阪神淡路大震災のときは,家族と仕事のことで精一杯。仕事を休んでまでボランテイアに行くことなど,思いもよりませんでした。でも,その後「炊き出し隊にでも参加したらよかった,支援のための行動を何も起こせなかった」という情けない気持ちがずっと残っていました。

 何かアクションを起こしたいけれどどうすればいいのだろうか,でも,今動いても役に立たないし迷惑になるだけだと葛藤を繰り返した結果,とりあえず,募金の振込みをしました。少し気持ちが落ち着きました。

 次に何をしたらいいのか,情報を手に入れなくてはと考え,Twitterを頻繁にチェックするようになりました。現地に食料や水を持って入る人たちの情報が飛び交うようになり,Twitter上に示された物資受入先に荷物を送りました。天草からも物資をという呼びかけがあったので,水やマスク,衣類をかき集めて持っていきました。

 さらに,ネットで見つけたNPO法人に,「医師は必要とされていないのだろうか?」とメールで問合わせてみました。なぜか,医師会に聞くことは思いつきませんでした(汗)。

 そうこうするうち,どうも阪神淡路大震災の時とは様相が違い,被災地が広域に渡りすぎていて,現地の医療資源は困窮しており,支援に入ったほうがいいとの情報を得ました。きっと現地の人達は困っているはず。317日の夜,夫婦で話し合い,保険医としての診療はできないかもしれないけれど,「よろず健康相談」と大書した幟を持って現地入りしてみたら?と,主人にアドバイスしました。そして,明日午後出発!と決めました。

 翌18日午前,思いがけず,JMAT要請のファクスが医師会から届きました。「きたぁ!これだぁ!これなら,医師として仕事ができる」と,主人に電話。「これで行こうよ。1人で行くより,ルートに乗って行ったほうが,しっかり仕事ができるし。」主人は即座にファクスで返事したはずです。「ところで,私は...?」「やっぱり,私も行こう!」と決断しました。

 JMATの応募要項には,チームでの参加を募っていました。その日出勤していたスタッフのうち,独身の2人に声をかけると,即座に彼女たちも「行きます」と。なんと心強く、嬉しい返事だったでしょう。

 

【覚悟】

 私は,昭和58年山口大学卒業です。医学部では軟式テニスクラブに所属し,全医体団体優勝チームの一員でした。元来,運動音痴で,テニスは大学に入って始めましたが,部員数はわずか6人。やっと団体1チームが編成できたような次第で,当然,レギュラー。パートナーの後衛にひたすら走らせて,私は声だけ(ほとんど野次と罵声です)で参加している前衛でした。その頃から元気だけは人一倍。結婚後,子ども達の野外活動に自分もついていくようになり,「風呂なし,シュラフでごろ寝,ひたすら歩く」というようなアウトドア環境において"燃える"自分に気づきました。家族で山登りをするようになり,一昨年,昨年と北アルプスの登山も経験しました。山小屋で男、女関係なく寝泊りする体験をして,サバイバルにちょっとだけ自信もつきました。「被災地には,食料やトイレ,寝袋等自己完結できる状態で参加を」と聞かされても,どうにかなるさ,できるはず,と思いました。

 主人は,自分が先に被災地に行くことが決まったとき,一瞬「大丈夫やろかぁ?」と,いつものように、かが泣きました。即座に,「じゃあ,私が先にいこうか?」と応じると,この一言で,主人は自分が行くことに諦めにも似た決心がついたようです。主人が女川に発ったあと,十万山は満開の桜でした。娘と一緒に,桜を見ながら,主人のことを思いました。そして,無事,主人は帰ってきました。

 今度は,自分の番です。「地震や津波が再び起きて命の危険があったら? その時は仕方ない,家族には諦めてもらおう。装飾品は邪魔だけど,遺体の判別が大変だと聞いたから,指輪をはめていこう」などと自問自答していました。主人には「この指輪はめて行くからね,何かあったら見つけてね」と告げました。そして,自分が無事に帰って来れますようにと願って,亡くなった母の形見の数珠をカバンに入れました。

 

【トイレ閉じ込められ事件】

 女川での生活が始まって3日目(416日)の午後,なんと,入浴サービスを受けることができました。1週間風呂なしを覚悟していましたので,いったんは遠慮しましたが,入浴スケジュールは,きっちり事務方で管理されていて,ちょうど空きがあるので入ってきてくださいとのこと。

 指定された時間に,病院の玄関前に1人で待機していました。周りには,誰も人影がなく,不安でした。そこへ,車から降りてきた男性が「お風呂ですか?」と声をかけてくれました。車で迎えに来てくれたAさんでした。Aさんは地域医療振興協会の事務方からの派遣で,入浴の送迎業務を担当しておられるとのことでした。病棟看護スタッフBさん(もちろん女性)が,シャンプーやリンスのボトルを入れたカゴを持って現れ同乗しました。

 Bさんには,派遣で医療支援に来た医師であることなど少しお話しましたが,あまりおしゃべりする方ではなく,こちらから彼女の状況や災害についてお聞きするのは遠慮されました。"病院のスタッフには,家族はなんとか無事だったけれど,家や車を流された方が多い"と聞いていました。震災後約1ヵ月で,入浴は3回目だということでした。女川へ来て3日目でもうお風呂に入れる私は,申し訳ない気持ちになりました。

 道路脇のいたるところに,壊れた建物とくずれたコンクリートや鉄の棒が飛び出していました。海岸沿いの道路は,ひびわれたりうねったりしていました。

 町立病院から女川原発へ向かう道を15分ほど行った山の中に,その入浴施設はありました。小さなプレハブ風の小屋で,手前のテントに男性が1人いて,発電機の音だけがブーンと鳴っていました。小屋の入り口の簡単なサッシをあけると,1畳半ほどの板間,右に木戸のトイレが2つ,左に脱衣所がありました。

 Aさんに「30分くらいは大丈夫です。ゆっくりしてきてください」といわれ,中に入りました。まだトイレに行ってなかったので,何も考えずにすぐにトイレに入りました。木戸がしまりにくく,力を入れて戸を閉めました。用を足して出ようとしたところ,鍵を掛けたつもりはないのに戸が開きません。暗い中よく見ると,取っ手が壊れており,内側にはノブがなく,飛び出した金属があるだけでした。戸を蹴破ろうとしてみましたが,びくともしません。気づいてもらえないかと,「すみませーん,戸が開かなくなったんですぅ」と叫んでみましたが,Bさんはもう浴室に入ってしまったのか,答えがありません。

 小さなトイレでしたが,上のほうに小窓が開いており,山の斜面が見えます。そこから,外へ向かって,「すみませーん,すみませーん。だれか,助けてもらえませんかぁ」と呼びかけてみますが,遠くで犬の鳴き声が聞こえ,風の音がするだけで,人の声は聞こえません。何度も大きな声を出しました。最後は「助けてくださ~い!」と叫んでいました。でも,応答はありませんでした。

 Bさんともっとお話して,お友達になっておけばよかった,そしたら,私が来ないのに気づいて出てきてくれたかもしれない,Aさんは外で待っておられるはずだし,男の人もいたのに,どうして気づいてくれないんだろうなどいろいろ考えます。

 Bさんもは入浴が終われば出てこられるでしょうし,Aさんも私を連れて帰るのが仕事だから,気づいてもらえるまで待っていてもよかったのですが,せっかく連れてきてもらったお風呂です。私にとって,入浴は与えられたミッションでした。入らないまま病院に帰ることになっては,あまりにも悔しいし残念だし,申し訳ないのです。自分の体を持ち上げて,小窓から脱出しようと試みましたが,若い頃できたことなのに,今はもうできません。

 「もうだめだ」と諦めかけたとき,ガラっと音がして,「先生,大丈夫ですか?」とBさんの声。私は泣きそうになりながら,「戸が開かないんです。助けてください」と答えました。Bさんは,私が「大」のほうでゆっくりしていると思われていたようで,それでもあまりに遅いので,出てきてくれたとのこと。

 それから大急ぎでお風呂に入りました。

 2人がくっついて座ればどうにか入れるくらいの浴槽があり,熱いお湯がたくさん入っていました。洗面器に汲んだ熱いお湯に,浴槽脇にあるバケツに流れている冷たい水(山水がひいてありました)を足しながら,髪や体を洗いました。後から来る人のことを考えて,ほんの少しだけ水を入れ,熱いのを我慢して,1人ずつそうっと浴槽につかりました(主人から,お風呂のマナーとして,熱いと言ってはいけないと教えられていました)。Bさんとは,やっぱりお風呂はありがたいですねぇとお話しながら,入浴を終えました。

 小屋から出てみると,外は冷え冷えとしており,Aさんもテントにいた男性も車の中でラジオを聴いておられ,私の悲痛な叫びは聞こえなかったはずだなあと妙に1人で納得しました。

 

【病院に残っていた機能】

 

主人の時

私の時

自動血球算定器

電解質(NaK

CRP

×

×

血糖値

×

PT-INR

×

△ 検査キット10のみ

ECG

×

×

レントゲン

ポータブルのみ

ポータブルのみ

CT

×

×

MRI

×

×

超音波

ポータブルのみ(腹部のみ)

ポータブルのみ(腹部のみ)

内視鏡(上部・下部)

×

×

手術室

×

×

厨房

×

×

警備室

×(外にありました)

×(外にありました)

空調

×

×

 

【調剤】

 受付・待合室の一角には,臨時に,区分けして調剤室が設けられていました。各県の名前を背中に書いた色とりどりのベストやジャンパーを着た薬剤師の皆さんが,狭いスペースで互いにぶつかりながら働いておられました。「○○の薬はありますか?」「この薬は,在庫ありません」と,互いに医師と薬剤師が声を掛け合いながら,協力して仕事をしました。

 

【同行の看護師】

 私のクリニックの看護師は,外来で,主に問診を担当していました。

 天草に帰ってきて,私と主人のクリニックが合同で報告会を開いたところ,普段あっさりとして冷静に見える彼女が,言葉につまり,やっとのことで,声をしぼりだすようにして,共にすごした町立病院の気丈なスタッフのことを話してくれました。

 

【八百屋さん】

 61日,町立病院医局秘書のCさんから,メールが届きました。「医局のネット環境が復活しました。これからは,携帯メールではなく,こちらへ連絡を」とのことでした。同時に,「○○○八百屋さんが車での行商をスタートしたので,助かっている」との嬉しいニュースも届けてくださいました。

 この八百屋さんには,外来で降圧剤の処方をしました。「甘いパンが多いので,塩気のきいたものが食べたくなるし,塩味の濃いカップラーメンが多いから」というお話に,「野菜があったらいいのに,ないですものね」と返事をすると,「自分は,八百屋だったのにねぇ。家も店も流されて商売できなくて」と残念そうな言葉が返ってきました。八百屋さんと聞いて,「野菜を仕入れて販売する道はないのですか?」と思わず尋ねてしまいました。仕入れの元手もないだろうし,店舗もなければ難しいだろうと想像できましたが,みんな野菜を食べたいに違いない,野菜が食べられたら栄養状況は格段に改善されるに違いないと思ったので,思い切って聞いてみたのです。すると,意外な答え。「元手もあるし,仕入れのルートもある。一緒にやろうと協力できる仲間もいる。でも町から止められている」というのです。町の復興計画が決まるまでは,たとえ自分の土地であっても店を開けないというのです。

 女川に1週間滞在しましたが,1円のお金も使うことはありませんでした。病院の周囲には店がなかったのです。女は買い物で元気になる動物です。たとえ,買わないにしても,お財布を握り締めて何を買おうかとみて回るだけで元気になります。

 もし,この八百屋さんが,病院の駐車場で,露店を開いてくれたら,病院へ来る人たちがどれほど助かるだろう,買い物できるなら病院へ行ってみようと考えてくれるかもしれない,などと考え,妄想は膨らみました。八百屋さんに連絡先を聞き,この情報を持って医局に帰りました。医局秘書のCさんに話すと,同じ女同士「それはいい!」,みんなが喜ぶいい考えだと賛成してくれました。院長も,「なるほど~」と言ってくれました。唯一,平地で残った町立病院駐車場に,屋台街を作りたいとの話もでるようになりました。

 

【あとがき】

 震災から3ヵ月が過ぎようとしています。

 女川町は,地盤沈下のために,満潮時刻の前後2時間ほど道路が冠水して通行不能になるため,潮汐表がいま最も重要な情報とのことです。

 現代に生きる私たちには,車なしの生活は考えられません。早く交通インフラが整備され,せめて公共交通機関なりとも予定通りに動くようにならなければ,最も大切な健康さえ守ることができません。

 仮設住宅の建設も遅々として進まず,避難所生活は同じように続いています。被災した自宅に帰ったために,かえって配給が受けられず,困窮の度合いが増した在宅避難者の方もおられます。仮設住宅に入れば,家電セットはあるけれど,配給の対象者からはずされます。職場も車も家も家族も失った人達は,どうやって生活を立て直していけばよいのでしょう。

 ある日,日が暮れる前に,町立病院がある高台を降りて,かつて女川駅があったところへと歩いてみました。自衛隊の車とボランティアの車が通るばかりで人影はなく,どこまでも荒涼とした景色が続きました。道脇に,なぜかぽつんと墓石が立っていたり,見つけてくださいとばかりにアルバムが置いてあったり,布団が色鮮やかなまましなだれかかっていたりしました。確かに,この前まで普通の生活があった場所なのに,今は何もなくなっていました。自分も,これと同じように,すべてを一瞬に奪われることがあり得るのだと痛烈に感じました。

 海に飲み込まれてしまった女川の町が元通りの美しい景色を取り戻すまでは,私にとっての"震災後"は続くのだと思っています。

 

このアーカイブについて

このページには、2011年6月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2011年5月です。

次のアーカイブは2011年9月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。