主人の 女川町立病院 医療支援の1週間

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主人は、3月31日から4月6日まで、私よりも2週間早く、女川町へ医療支援に行きました。

今回、その経験を、天草郡市医師会の会報に寄稿しました。

以下、その全文です。

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3.11 東北大震災の医療支援活動に参加して

熊本県天草市五和町二江1477-57

医療法人扶桑会

中村こども・内科クリニック

院長 中村 英一

 

【天草の患者イコール日本の患者だ】

 元来,医学講演会などに出席して真面目に勉強するのは,大の苦手でした。しかし,何のきっかけか,12年前からたびたび出席させていただくようになりました。さまざまな分野の講演を聞いているうちに,普段の診療でどうすれば良いのかよく判らなかったことや,患者さんの訴えにちゃんと答えることができなかったところは,講演のポイントが,そのまま答えになっていることに気がつきました。

 私の診療の場は,日本の片隅の熊本県のまた端にある天草の,そのまた端っこです。しかし,講演会に参加すると,「自分が診ている患者さんたちの訴え」はまさしく「全国の患者さんの訴え」でもあり,自分の患者への答えは現在の日本の標準的医療が提供している臨床のポイントに他ならないと認識させられます。「私の住む天草二江地区の方々は,"天草の代表"であり,"熊本の代表"であり,"日本の代表"である。自分は,そんな"日本の代表的な集団"を対象に医療を行っているのだ」と思えるようになりました。

 

【震災に際しての焦燥】

 そんな中,今年311日,あの東北大震災が発生しました。震災の被害にあった地域は,リアス式海岸である三陸海岸が中心であり,その沖は,古来世界有数の漁場と言われています。一方,わが天草二江地区も,天草灘に面し,漁業・水産業を中心に生きてきた町です。震災翌日の診療から,だんだん東北被災者の方々と二江地区の住民の方々との区別が付かなくなってくる気がしました。

 代わり映えのしない日々の診療をしていることに焦りが生じ,じっとしていられなくなり,毎晩のように夫婦で,「もう東北に行く!」「今行っても何もできんし~,ちゃんとルートを確保してから行って!」というような言い争いをしておりました。二江の患者さんからも「先生!早く行ってあげて!」と言われることもあり,「東北に応援に行ったことにして,どこか1週間ほど身を隠そうか...」と思ったこともありました。             

 そうこうしているうちに,熊本県医師会からJMATを通じて東北被災地の医療支援の希望者招へいの連絡があり,すぐに夫婦で参加の意向を伝えました。九州地区のJMATは,茨城県の北茨城市立総合病院の医療支援を担当することとされ,私は331日から4日間,妻が46日から4日間の支援に参加する予定でした。ところが直前になり,この医療支援計画はなぜか頓挫してしまい,私たちの医療支援も出鼻を挫かれた格好になりました。しかし,すでに私は,公的手段には頼らずとも,"よろず健康相談所"と大きく書いた看板を持参して,自力で東北の避難所へ行こうと決意していました(この時には,妻も行ってよいと言ってくれました)。

 そんな時,自治医大卒業生を中心に作られた地域医療振興協会が被災地の病院の医療支援活動を行っていることを知り,同協会に所属している同級生を通じ,夫婦ともに参加したい旨を伝えると,すぐに参加OKの返事を頂きました(ただし,「相当にキツイぞ!」と脅されました)。

 熊本県医師会へその旨を連絡したところ,その医療支援をJMATの活動として許可するという返事を頂き,晴れて日本医師会会員によるJMATの一員として宮城県の女川町立病院の医療支援に参加することになりました。330日から47日までの89日の予定でした。

 医療支援活動から帰るまではおそらく入浴できないだろうと思い,330日午前の診療を終えてから,地元天草の温泉施設"ペルラの湯舟"へ出かけました。早春の暖かく,のどかな光の中,温泉に浸かりながらこれからの1週間のことを思いやりました。そして,「海はあんな凶暴な姿にも変わってしまうこともある」のだと,眼前に広がる穏やかな光景を見ながら感慨深く思いました。"最期の入浴"を終え,最終便で熊本空港より東京へ向かいました。被災地で一週間生活するための自分の食糧,衣類,医療用品(聴診器,薬,小児用点滴留置針などなど)を大量にパッキングしていたため,空港ではプラス40㎏の追加運賃を支払いました(初めての経験でした)。荷物が"腰部脊柱管狭窄症"と診断されていた腰にこたえました。

 

【いざ女川へ】

 羽田から,そのまま地域医療振興協会本部事務所のある平河町へ到着。医療支援に関するブリーフィングを受け,ホテルで一泊しました。医療チームは,私を含め医師が5名,看護師が十数名と事務職,総勢25名程で構成されていました。翌日は新木場からヘリで女川入りするはずでしたが,天候不良のためヘリは飛ばず,朝545分にホテルロビーに集合し6時にバスで東北へ向け出発することになりました。長時間の行程となることが予想され,トイレと腰痛が心配でした。

 東北方面へ向かう車は少なく,そのほとんどは支援物資の輸送と思われるトラックや自衛隊の車輌でした。福島県へ入った頃から,高速道路に段差や亀裂が生じている箇所が多くなり,敷いてある鉄板を乗り越える度にバスに衝撃を感じるようになりました。

 東北自動車道から別れ,仙台南部道路,多賀城市を経て,前日再開通したという三陸自動車道を通る頃から進行方向,向かって右は津波で流されたのか,一面瓦礫に覆われた平原となっており,海岸までの間には何も建物が存在していませんでした。次第に空模様は薄曇りの雪へと変わっていきました。

 午後1時すぎに女川町立病院へ到着。乗ってきたバスは,直ちに交代で帰るチームを乗せ,東京へ向け出発しました。帰るチームと女川町立病院の職員の互いに別れを惜しむ様子を見て,自分がこれから経験する1週間の責任の重さを痛感し,少々荷が重くなるのを感じました。その日の午後からすぐに外来診療に従事しました。23時間に1回,強い揺れを含む余震がありました。

 ここで,私たち応援医師の生活環境について触れておきます。寝る場所は医局です。机の下の床に直接ダンボールを敷いて,その上に寝袋を置いて休んでいました(頭を踏まれないようにするためです)。なお,震災後から2週間は病院屋上に設置された貯水タンクの水が枯渇していたため,オムツを持ってトイレに入り,オムツの上に用足しをして,その使用したオムツを持って出てきたあと,ゴミ袋へ捨てるという状態だったそうです。私が行った時は,毎日,自衛隊が12トンの水を給水車で運び,それを病院屋上のタンクへ給水してくれていましたので,無事に水洗が復活していました(大変にありがたいことです)。しかし,それでも水が足らないため,節水が呼びかけられていました。食事は,おにぎりと菓子パンの配給があり,カップ麺類はふんだんにありました。レトルトカレーもあり,お湯を入れて食べるアルファー米もありました。夜は,医局でアルコールをたしなみながらの食事ができました(この時間が,唯一のオアシスのようでした)。 

 

【ある日の当直日誌】

 交代で準夜勤,深夜当直,待機体制があり,私も1週間で2回の準夜勤(午後5時から午前0時まで)と1回の深夜当直にあたりました。

 45日(火)の深夜当直の日のことです。

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 医師の当直者が待機する場となっていた医局ソファーで,朝5時半に目覚めた。その間,1回も起こされることは無かったため,起こされたのに自分が起きれなかったのでは?と不安になった。

 流行していた感染性胃腸炎をもらったのか,数日来,激しい下痢に見舞われており,すぐにトイレへ。和式便器を汚してしまい,自分なりに掃除をした。

 洗面後,外来へ行ったところ,あまりにもタイミングよく私が現れたので,外来ナースにとてもびっくりされた。特養ホーム入所中の認知症の方が朝立っていたかと思うと,すぐに倒れ意識が無くなったので,病院へ搬送してきたとのこと。玄関口へ出るとホームの車が止まっていた。車内のストレッチャーの老女は意識もあり,応答も見られた。"起立性調節障害"による症状だったのかと思い,ストレッチャーごと院内処置室へ。バイタルも良好であったが,四肢冷感があり,補液開始し,様子観察することにした。

 そこへ病棟ナースがあわただしく処置室奥の事務室へ走り込んで来た(そこには,院内で唯一の衛星電話が置いてあった。地域医療振興協会が持ち込んだものとのことだった)。病棟入院中の96歳になる女性の患者の意識レベルが下がり,家族を呼ぶために電話しに来たのだった。すぐに4階病棟へ駆け登り(エレベーターは使用不能),病状把握。血圧が低下していたため,酸素投与を指示(酸素も残り少ないとのことで,控えめに使用)。

 医局へ戻ろうとすると,吹き抜けのホールを囲む廊下の反対側の給湯室で,洗面が終わったのか,一人の女性が真っ白いタオルを顔に優しく押し当てながら拭いている後姿が見えた。お湯は出ないので,水は手を切るような冷たさのはずなのだが,その場所は,そこだけがまるで全ての生活環境が完璧に整っているかのように見えた。その気高く清らかなたたずまいは,今ここが置かれている恐ろしく悲惨な状況を見事に圧倒していて,まだ暗い中で,そこだけが神々しく輝いて見えた。何か言いようの無い深い感動におそわれ,しばし涙があふれて止まらなかった。

 約30分後,ホールでの朝礼(毎朝7時から打ち合わせが行われていた)の最中,慌ただしく入ってきた男性を見て,先程の病棟患者の息子だと直感した。朝礼の列を離れ一緒に階段を登りながら,病状説明をした。

 病室に入り,私が患者の名前を呼ぶと,ゆっくり開眼した。息子は,「おがさん!」と東北弁で呼びかけた。すると,患者は息子だと判ったのか,顔全体をしかめながら,うなずいた。その直後から呼吸は微弱となり,血圧も測定不能となった。

「あまり長くはかからないと思うので,ここに居てあげて下さい」と息子に告げ,病室を離れた。

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【帰還】

 47日,ついに帰還の日です。

 伸び放題になっていたヒゲをコーヒーカップに入れたお湯で,石けんを泡立てて何とか剃りました(皆からきれいになったとほめられました)。

 午前中はいつものように外来患者の診察を行いました。昼前に,次のチームの医師4名を乗せたヘリが,ヘリポートとして使用していた病院前駐車場へ到着。交代でヘリに乗り込みました。上空から西の彼方を見れば,まだ白く雪を被った東北の山々が美しく輝いていました。                 

 約2時間後,無事,新木場のヘリポートへ到着しました。往路はバスでゆっくり入ったのに,あっという間にこの世に戻ってきた感じでした。見慣れた羽田空港に着いた時には,まるで浦島太郎みたいになった心持ちでした。

 

【思うこと】

 今回帰ったあと,しばしば「どうだったですか?」「大変だったでしょう?」と聞かれます。しかし,私はすでに作り上げられたコースに乗っかって女川へ行き,安全な町立病院の中でそのほとんどの時間をすごし,外来診療にあけくれ,また,決められたコースで帰ってきただけです。特別に新たな体制を立ち上げた訳でもなく,被災地の方々に希望の灯を与えた訳でもありません。

 私の住む天草,二江地区からは遠く西の東シナ海に日が沈んでいきますが,女川では東の太平洋から日が昇ってきます。「遠いところへ来たなぁー」との思いがありました。ある女川の年寄りの患者さんが,熊本・天草弁丸出しの私の問診に,九州から来たと判ったのか,「遠い所から支援に駆けつけてもらい,有難いなぁー」との意味の言葉を,返してくれました(東北弁でわからなかったため,介助のナースに通訳してもらいました)。その時,とにかく"がむしゃらな思い"で医療支援活動に来てみて良かったと,初めて感じました。

 今回の地震で,東北,三陸海岸一帯は,地盤が1メートル強ほど沈下したといいます。同規模の地震は千年に一度起こるといわれており,100万年では1,000メートル程,現在の地面が地下に"潜り込む"ことになります(天草であれば,すべて海の底に消えます)。地球の時間軸からすると,たったの100万年です。そうした悠久の時間の中で三陸海岸は,リアス式海岸としてその複雑な地形を保ち続けており,そのことが豊かな海の恵みをもたらしているのだと思います。そうであればこそ,一瞬を生きる我々人間は再びそこにへばりつくようにして生きていかねばならないのだと思います。今回の地震・津波・原発事故で被害を受けた方たちが,再び安心して暮らせるようになるまでは,まだまだ長く,遠い道のりであると思われます。

 人々が生活をしていく上で最も必要なものは,「衣・食・住」ではなく,「医・食・住」であると言われるように,医療は最も重要で,私たちの生活に無くてはならないものだと言えます。医療の存在無しには東北の復興はあり得ません。今後も,惜しみない継続的な援助が,私たち医療界から必要と思われました。

 最後に,私のわがままな行動を温かく見守ってくださった二江の患者さん達,私たち夫婦のクリニックに勤務していただいている職員の方々,天草および熊本県医師会会員および事務局の皆様と,地域医療振興協会本部の皆様に感謝いたします。

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このページは、webmasterが2011年6月14日 23:48に書いたブログ記事です。

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