私にとっての震災後

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4月14日から21日まで、宮城県牡鹿郡女川町立病院へ、医療支援に行ってきました。

5月に、JMAT派遣報告を書きましたが、今回、医療支援に参加した経験を、天草郡市医師会の会報に、寄稿しました。

以下、その全文です。

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東北大震災医療支援活動に参加して

医療法人 扶桑会

十万山クリニック

院長 中村弓美

JMAT派遣決定まで】

 仙台平野をなめるように覆いつくしていく黒い波。診療後の待合室のテレビは,地震と津波のニュースを報じていました。帰宅すると,リアルタイムでテレビを見ていた主人が「これは阪神淡路大震災を超える大惨事になるよ」と言いました。最初は,まさかそんな?と感じていた私。でも,ニュース映像を見たり,Twitter上に無数に飛び交う安否確認を求める叫びを読んだりしているうちに,主人の言うとおりだと確信しました。

 主人は,すぐに現地に行くと言い出しました。しかし,今主人が現地に入ったとしても被災地に逆に迷惑をかけると考え,どうにか思いとどまらせました。阪神淡路大震災の経験者が「十分に用意をしていないボランティアが現地に行くと迷惑になるだけだ」とネット上で発信していたからです。とは言うものの,私も心がざわざわして仕事が手につかない気持ちになりました。早く対処すれば助かる命もあるのでは,と思ったからです。そのとき,私は「阪神淡路大震災で家の下敷きになった娘の"おとうさん助けて"という声を聞いても,迫りくる大火のために娘を助けられなかった」という父親の談話を思い出していました。

 阪神淡路大震災のときは,家族と仕事のことで精一杯。仕事を休んでまでボランテイアに行くことなど,思いもよりませんでした。でも,その後「炊き出し隊にでも参加したらよかった,支援のための行動を何も起こせなかった」という情けない気持ちがずっと残っていました。

 何かアクションを起こしたいけれどどうすればいいのだろうか,でも,今動いても役に立たないし迷惑になるだけだと葛藤を繰り返した結果,とりあえず,募金の振込みをしました。少し気持ちが落ち着きました。

 次に何をしたらいいのか,情報を手に入れなくてはと考え,Twitterを頻繁にチェックするようになりました。現地に食料や水を持って入る人たちの情報が飛び交うようになり,Twitter上に示された物資受入先に荷物を送りました。天草からも物資をという呼びかけがあったので,水やマスク,衣類をかき集めて持っていきました。

 さらに,ネットで見つけたNPO法人に,「医師は必要とされていないのだろうか?」とメールで問合わせてみました。なぜか,医師会に聞くことは思いつきませんでした(汗)。

 そうこうするうち,どうも阪神淡路大震災の時とは様相が違い,被災地が広域に渡りすぎていて,現地の医療資源は困窮しており,支援に入ったほうがいいとの情報を得ました。きっと現地の人達は困っているはず。317日の夜,夫婦で話し合い,保険医としての診療はできないかもしれないけれど,「よろず健康相談」と大書した幟を持って現地入りしてみたら?と,主人にアドバイスしました。そして,明日午後出発!と決めました。

 翌18日午前,思いがけず,JMAT要請のファクスが医師会から届きました。「きたぁ!これだぁ!これなら,医師として仕事ができる」と,主人に電話。「これで行こうよ。1人で行くより,ルートに乗って行ったほうが,しっかり仕事ができるし。」主人は即座にファクスで返事したはずです。「ところで,私は...?」「やっぱり,私も行こう!」と決断しました。

 JMATの応募要項には,チームでの参加を募っていました。その日出勤していたスタッフのうち,独身の2人に声をかけると,即座に彼女たちも「行きます」と。なんと心強く、嬉しい返事だったでしょう。

 

【覚悟】

 私は,昭和58年山口大学卒業です。医学部では軟式テニスクラブに所属し,全医体団体優勝チームの一員でした。元来,運動音痴で,テニスは大学に入って始めましたが,部員数はわずか6人。やっと団体1チームが編成できたような次第で,当然,レギュラー。パートナーの後衛にひたすら走らせて,私は声だけ(ほとんど野次と罵声です)で参加している前衛でした。その頃から元気だけは人一倍。結婚後,子ども達の野外活動に自分もついていくようになり,「風呂なし,シュラフでごろ寝,ひたすら歩く」というようなアウトドア環境において"燃える"自分に気づきました。家族で山登りをするようになり,一昨年,昨年と北アルプスの登山も経験しました。山小屋で男、女関係なく寝泊りする体験をして,サバイバルにちょっとだけ自信もつきました。「被災地には,食料やトイレ,寝袋等自己完結できる状態で参加を」と聞かされても,どうにかなるさ,できるはず,と思いました。

 主人は,自分が先に被災地に行くことが決まったとき,一瞬「大丈夫やろかぁ?」と,いつものように、かが泣きました。即座に,「じゃあ,私が先にいこうか?」と応じると,この一言で,主人は自分が行くことに諦めにも似た決心がついたようです。主人が女川に発ったあと,十万山は満開の桜でした。娘と一緒に,桜を見ながら,主人のことを思いました。そして,無事,主人は帰ってきました。

 今度は,自分の番です。「地震や津波が再び起きて命の危険があったら? その時は仕方ない,家族には諦めてもらおう。装飾品は邪魔だけど,遺体の判別が大変だと聞いたから,指輪をはめていこう」などと自問自答していました。主人には「この指輪はめて行くからね,何かあったら見つけてね」と告げました。そして,自分が無事に帰って来れますようにと願って,亡くなった母の形見の数珠をカバンに入れました。

 

【トイレ閉じ込められ事件】

 女川での生活が始まって3日目(416日)の午後,なんと,入浴サービスを受けることができました。1週間風呂なしを覚悟していましたので,いったんは遠慮しましたが,入浴スケジュールは,きっちり事務方で管理されていて,ちょうど空きがあるので入ってきてくださいとのこと。

 指定された時間に,病院の玄関前に1人で待機していました。周りには,誰も人影がなく,不安でした。そこへ,車から降りてきた男性が「お風呂ですか?」と声をかけてくれました。車で迎えに来てくれたAさんでした。Aさんは地域医療振興協会の事務方からの派遣で,入浴の送迎業務を担当しておられるとのことでした。病棟看護スタッフBさん(もちろん女性)が,シャンプーやリンスのボトルを入れたカゴを持って現れ同乗しました。

 Bさんには,派遣で医療支援に来た医師であることなど少しお話しましたが,あまりおしゃべりする方ではなく,こちらから彼女の状況や災害についてお聞きするのは遠慮されました。"病院のスタッフには,家族はなんとか無事だったけれど,家や車を流された方が多い"と聞いていました。震災後約1ヵ月で,入浴は3回目だということでした。女川へ来て3日目でもうお風呂に入れる私は,申し訳ない気持ちになりました。

 道路脇のいたるところに,壊れた建物とくずれたコンクリートや鉄の棒が飛び出していました。海岸沿いの道路は,ひびわれたりうねったりしていました。

 町立病院から女川原発へ向かう道を15分ほど行った山の中に,その入浴施設はありました。小さなプレハブ風の小屋で,手前のテントに男性が1人いて,発電機の音だけがブーンと鳴っていました。小屋の入り口の簡単なサッシをあけると,1畳半ほどの板間,右に木戸のトイレが2つ,左に脱衣所がありました。

 Aさんに「30分くらいは大丈夫です。ゆっくりしてきてください」といわれ,中に入りました。まだトイレに行ってなかったので,何も考えずにすぐにトイレに入りました。木戸がしまりにくく,力を入れて戸を閉めました。用を足して出ようとしたところ,鍵を掛けたつもりはないのに戸が開きません。暗い中よく見ると,取っ手が壊れており,内側にはノブがなく,飛び出した金属があるだけでした。戸を蹴破ろうとしてみましたが,びくともしません。気づいてもらえないかと,「すみませーん,戸が開かなくなったんですぅ」と叫んでみましたが,Bさんはもう浴室に入ってしまったのか,答えがありません。

 小さなトイレでしたが,上のほうに小窓が開いており,山の斜面が見えます。そこから,外へ向かって,「すみませーん,すみませーん。だれか,助けてもらえませんかぁ」と呼びかけてみますが,遠くで犬の鳴き声が聞こえ,風の音がするだけで,人の声は聞こえません。何度も大きな声を出しました。最後は「助けてくださ~い!」と叫んでいました。でも,応答はありませんでした。

 Bさんともっとお話して,お友達になっておけばよかった,そしたら,私が来ないのに気づいて出てきてくれたかもしれない,Aさんは外で待っておられるはずだし,男の人もいたのに,どうして気づいてくれないんだろうなどいろいろ考えます。

 Bさんもは入浴が終われば出てこられるでしょうし,Aさんも私を連れて帰るのが仕事だから,気づいてもらえるまで待っていてもよかったのですが,せっかく連れてきてもらったお風呂です。私にとって,入浴は与えられたミッションでした。入らないまま病院に帰ることになっては,あまりにも悔しいし残念だし,申し訳ないのです。自分の体を持ち上げて,小窓から脱出しようと試みましたが,若い頃できたことなのに,今はもうできません。

 「もうだめだ」と諦めかけたとき,ガラっと音がして,「先生,大丈夫ですか?」とBさんの声。私は泣きそうになりながら,「戸が開かないんです。助けてください」と答えました。Bさんは,私が「大」のほうでゆっくりしていると思われていたようで,それでもあまりに遅いので,出てきてくれたとのこと。

 それから大急ぎでお風呂に入りました。

 2人がくっついて座ればどうにか入れるくらいの浴槽があり,熱いお湯がたくさん入っていました。洗面器に汲んだ熱いお湯に,浴槽脇にあるバケツに流れている冷たい水(山水がひいてありました)を足しながら,髪や体を洗いました。後から来る人のことを考えて,ほんの少しだけ水を入れ,熱いのを我慢して,1人ずつそうっと浴槽につかりました(主人から,お風呂のマナーとして,熱いと言ってはいけないと教えられていました)。Bさんとは,やっぱりお風呂はありがたいですねぇとお話しながら,入浴を終えました。

 小屋から出てみると,外は冷え冷えとしており,Aさんもテントにいた男性も車の中でラジオを聴いておられ,私の悲痛な叫びは聞こえなかったはずだなあと妙に1人で納得しました。

 

【病院に残っていた機能】

 

主人の時

私の時

自動血球算定器

電解質(NaK

CRP

×

×

血糖値

×

PT-INR

×

△ 検査キット10のみ

ECG

×

×

レントゲン

ポータブルのみ

ポータブルのみ

CT

×

×

MRI

×

×

超音波

ポータブルのみ(腹部のみ)

ポータブルのみ(腹部のみ)

内視鏡(上部・下部)

×

×

手術室

×

×

厨房

×

×

警備室

×(外にありました)

×(外にありました)

空調

×

×

 

【調剤】

 受付・待合室の一角には,臨時に,区分けして調剤室が設けられていました。各県の名前を背中に書いた色とりどりのベストやジャンパーを着た薬剤師の皆さんが,狭いスペースで互いにぶつかりながら働いておられました。「○○の薬はありますか?」「この薬は,在庫ありません」と,互いに医師と薬剤師が声を掛け合いながら,協力して仕事をしました。

 

【同行の看護師】

 私のクリニックの看護師は,外来で,主に問診を担当していました。

 天草に帰ってきて,私と主人のクリニックが合同で報告会を開いたところ,普段あっさりとして冷静に見える彼女が,言葉につまり,やっとのことで,声をしぼりだすようにして,共にすごした町立病院の気丈なスタッフのことを話してくれました。

 

【八百屋さん】

 61日,町立病院医局秘書のCさんから,メールが届きました。「医局のネット環境が復活しました。これからは,携帯メールではなく,こちらへ連絡を」とのことでした。同時に,「○○○八百屋さんが車での行商をスタートしたので,助かっている」との嬉しいニュースも届けてくださいました。

 この八百屋さんには,外来で降圧剤の処方をしました。「甘いパンが多いので,塩気のきいたものが食べたくなるし,塩味の濃いカップラーメンが多いから」というお話に,「野菜があったらいいのに,ないですものね」と返事をすると,「自分は,八百屋だったのにねぇ。家も店も流されて商売できなくて」と残念そうな言葉が返ってきました。八百屋さんと聞いて,「野菜を仕入れて販売する道はないのですか?」と思わず尋ねてしまいました。仕入れの元手もないだろうし,店舗もなければ難しいだろうと想像できましたが,みんな野菜を食べたいに違いない,野菜が食べられたら栄養状況は格段に改善されるに違いないと思ったので,思い切って聞いてみたのです。すると,意外な答え。「元手もあるし,仕入れのルートもある。一緒にやろうと協力できる仲間もいる。でも町から止められている」というのです。町の復興計画が決まるまでは,たとえ自分の土地であっても店を開けないというのです。

 女川に1週間滞在しましたが,1円のお金も使うことはありませんでした。病院の周囲には店がなかったのです。女は買い物で元気になる動物です。たとえ,買わないにしても,お財布を握り締めて何を買おうかとみて回るだけで元気になります。

 もし,この八百屋さんが,病院の駐車場で,露店を開いてくれたら,病院へ来る人たちがどれほど助かるだろう,買い物できるなら病院へ行ってみようと考えてくれるかもしれない,などと考え,妄想は膨らみました。八百屋さんに連絡先を聞き,この情報を持って医局に帰りました。医局秘書のCさんに話すと,同じ女同士「それはいい!」,みんなが喜ぶいい考えだと賛成してくれました。院長も,「なるほど~」と言ってくれました。唯一,平地で残った町立病院駐車場に,屋台街を作りたいとの話もでるようになりました。

 

【あとがき】

 震災から3ヵ月が過ぎようとしています。

 女川町は,地盤沈下のために,満潮時刻の前後2時間ほど道路が冠水して通行不能になるため,潮汐表がいま最も重要な情報とのことです。

 現代に生きる私たちには,車なしの生活は考えられません。早く交通インフラが整備され,せめて公共交通機関なりとも予定通りに動くようにならなければ,最も大切な健康さえ守ることができません。

 仮設住宅の建設も遅々として進まず,避難所生活は同じように続いています。被災した自宅に帰ったために,かえって配給が受けられず,困窮の度合いが増した在宅避難者の方もおられます。仮設住宅に入れば,家電セットはあるけれど,配給の対象者からはずされます。職場も車も家も家族も失った人達は,どうやって生活を立て直していけばよいのでしょう。

 ある日,日が暮れる前に,町立病院がある高台を降りて,かつて女川駅があったところへと歩いてみました。自衛隊の車とボランティアの車が通るばかりで人影はなく,どこまでも荒涼とした景色が続きました。道脇に,なぜかぽつんと墓石が立っていたり,見つけてくださいとばかりにアルバムが置いてあったり,布団が色鮮やかなまましなだれかかっていたりしました。確かに,この前まで普通の生活があった場所なのに,今は何もなくなっていました。自分も,これと同じように,すべてを一瞬に奪われることがあり得るのだと痛烈に感じました。

 海に飲み込まれてしまった女川の町が元通りの美しい景色を取り戻すまでは,私にとっての"震災後"は続くのだと思っています。

 

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このページは、webmasterが2011年6月14日 23:41に書いたブログ記事です。

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